Atlanta 1996 that night,She has written on the back of her right hand ,in japanise "Make everything possible"
1987年春。YOKOの早稲田での生活が始まり ました。中学、高校で日本一を経験し、 全日本Jr.のキャプテンまでつとめた彼女 が何故早稲田に?バレー業界からの風当た りは相当のものでした。
「二足の草鞋を履いて全日本をめざす?」 彼女のバレーに対する熱意を疑う声や 非難の声は当然、彼女の耳にも届いてい ました。
しかし、心からバレーが好きで、 あくまでも自分の意思でプレーする選手 たちの姿に、心を打たれて早大入りを 決意した彼女に、後悔はありませんでした。

「今は6部最下位(関東大学リーグで) のチームだけど,彼女たちといっしょなら、 きっとTOPチームになれる」と固く信じて いたのです。 1990年、YOKO4回生の秋。YOKOの活躍で チームは、2部優勝まで昇りつめました。 しかし結局、ナショナルチーム関係者が、 彼女のプレーを見に早大へ来ることは、 一度もなかったのでした。 業界にとっては、高校卒業時に実業団入 りを選ばなかった彼女は、あくまでもド ロップアウトした者でしかなっかったのです。
五輪への夢を、どうしても捨てき ることができない彼女が、米国ナショナ ルチームの話を聞いたのはそんな時でし た。「実績や経歴ではなく、いま現在の 選手の能力だけが通用する実力主義のバ レー」に賭けようと決心します。
1991年春。早大卒業直前、彼女は単身渡 米、米国ナショナルチームの公開入団テ ストを受け、合格したのでした。
早稲田大学1回生時代のYokoさん。このころチームはまだ弱かったの で練習コートを確保するのが大変で、都内を走り廻ってコートを探す のが最初のトレーニング??だったそうです。









バレーにおいても、人生においても、Yokoさんにとってはかけがえの ないベストフレンド。6年間の米国ナショナルチーム時代生き抜く力 をYokoに与えてくれたチームメイト達です
米国ナショナルチームの公開入団テストに合格し、渡米する直前の Yokoさん。バルセロナ五輪まで残された日は500日あまり。

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