Atlanta 1996 that night,She has written on the back of her right hand ,in japanise "Make everything possible"
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「名選手、名監督にあらず」 って、本当でしょうか?

現役時代にすばらしいものをもって活躍していた選手が、今度は指導する側である監督や、コーチになったときに、あまり、芳しい成績を残せないケースが多いことから、このような文句が生まれたのだと思います。

まだ現役の選手という立場にある私の、個人的見解から言わせていただけば、名選手になることより、名監督になることの方が、はるかに難しいのではないかと思います。
一流の選手になるためには、たゆまぬ努力や向上心、そして技術的センス、才能、と割合本人にのみ関係する要素がととのっていれば、可能だと思います。 ただ、一流の監督と呼ばれるには、そのようなチームや選手を育成して初めて、名将、知将と呼ばれるのです。

名選手になるための条件としていくつか挙げました、これらにプラスして、人を育てるセンスや、先見の明、選手の才能を見いだす才能、カリスマ性などの要素を備えていることが、名監督と呼ばれる人たちなのではないでしょうか。

世の中、セオリー通りにいかないことが多々あるように 「名選手・・・」 の文句にあてはまらぬ人がやはり、いるものです。 しかもそれが、女性となると、希少価値だと思います。
中国女子バレーボールチームを率いるのは、まだ30半ばの郎平。
古いバレーファンの方には、なつかしい名前だと思います。 郎平自身、84年のロス五輪の金メダリストで、中国の国民的英雄といわれています。

香港で試合が行われた際のレセプションでも、政財界の要人たちが、郎平監督に一目置いて接している様子や、試合会場で 「監督、郎平」 のアナウンスが流れた時に、選手たちよりも、受ける拍手が大きかったことを鮮明に覚えていますが、現役を退いて10数年たった今も、彼女のポピュラー度は衰えていません。

92年のバルセロナ五輪で、優勝候補の一角にいた中国チームが最下位の成績に終わり、94年の世界選手権でも惨敗した2ヵ月後、中国バレー協会の要請を受けて 「郎平監督」 が誕生しました。
監督に就任した彼女は、チームの半数を若手に切り替え、本人のイタリアプロ時代や、アメリカ留学時の経験などを導入しながらつくり上げたチームは、わずか2年後のアトランタ五輪で銀メダルに輝き、現在も常時、世界のベスト4に入るまでに復活しました。

4年に1度のオリンピックサイクルの間にでさえ、チームを完成させることは至難の業なのに、それを2年という短期間で、ほぼ完璧に成し遂げた郎平監督の、セオリー破りの魅力について、次回はもう少し、掘り下げて書いてみようと思います。


(デイリースポーツ'98.3.03)
ヨーコ・ゼッターランドのスポーツ東西見聞録より

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