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「ダイエーオレンジアタッカーズ」チームとプロ契約を結んでからおよそ8ヶ月。 過ぎた日々の出来事をあまり深く想い返すことはいとわろし、と普段は思っている私ですが今回ばかりは、この数ヶ月の間に私の身に起こったさまざまなことを感慨深く回想しつつ原稿を書いています。
私は現実主義者的な部分がかなり多くある反面、この世の中には何か数字だけでは割り切れない論理が存在し、我々は時として知らないうちにある方向に吸い寄せられるようにして進んで行くこともあるという考えも持ち合わせています。
まあ、もっと簡単に言ってしまえば「運命」とか「めぐり合わせ」といったことを信じ、これらの不思議さを楽しんでいるといったところでしょうか。
5月5日で終了した第47回全日本バレーボール女子選手権大会はダイエーにとって最後の大会となり、新たに出発するオレンジアタッカーズにとっても最高の結果である優勝の二文字を部史に刻むことができました。
シーズンごとのプロ契約で来てはいるものの、日を追うごとに情がわくチームメートたちと共に迎えることができたこの日を私は一生忘れないでしょう。
そしてダイエーに来てプレーをしていなかったら起こり得なかったかもしれないもうひとつの出来事。 それは母子2代で皇后杯を手にすることができたことでした。
今を去ること48年前、高校3年生だった母は大会3連覇を目指して、真夏の四国は高松で決勝戦を戦っていました。初めて皇后杯が下賜されることになったこの大会で母のチームは、決勝でのファイナルセットの時に6点差をつけられ負けていました。ラリーポイントのゲームではこの状況はまさに絶体絶命の大ピンチ。
しかし、「誰も負けるなんて思ってもいなかった」 母のチームは逆転を果たし、輝く皇后杯を手にしたのです。
賜杯で飲んだビールの味は格別だったワ、と語っていた母の顔を思い出しながら表彰台の上で近づいてくる皇后杯を見て胸が・・・ん?高校生がビール?この親にしてこの子あり、とはよく言ったもんだと思いつつニヤニヤ笑っていた私でした。
12歳の時に母の反対を押し切って、絶対途中でやめたりしないからと言って私はバレーボールを始めました。この時、私は17年後の自分に母がかつて手にした賜杯を自分も手にすることになる日が来ようとは想像だにしませんでした。
48年の時を経て、娘が手にした皇后杯の色は少し鈍い輝きを放っていましたが、その杯の中には母のバレーボール人としての神髄が強く光り輝いて漂っているのが見えました。
(デイリースポーツ'98.5.12)
ヨーコ・ゼッターランドのスポーツ東西見聞録より
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