Atlanta 1996 that night,She has written on the back of her right hand ,in japanise "Make everything possible"
夢と大きな世界広げてくれた故山田先生
母子2代で皇后杯を手にできた


今を去ること10年ほど前のことになります。高校3年生だった私は、 大学に進学するか、実業団チームに入ってバレーボールを続けるかという選択をする時期に来ていました。

いつからそのようなきまりができたかは知りませんが、高校バレーである程度の成績を残し、将来を有望視 されている選手は実業団入りををして鍛錬しオリンピックを目指すものだという暗黙のルールみたいなものが ありました。 私も一応このカテゴリーに属する選手として周囲の人たちのほとんどが私は実業団チームに入る ものだと信じて疑わなかったようです。

ところが私が進んだ先は大学で、しかもバレーボールだけに関していえばトップレベルからはほど遠い 位置にありました。 バレー協会関係者の中には「ピアニストがバイオリンを弾くようなものだ」とおっしゃった 方もいましたが、べつに音感が狂うわけじゃないし、バイオリンを弾いてみたっていいじゃないのサッと思って いました。 今、振り返ってみると実際、異なる楽器を奏でたことによってピアノの音色に対してより 鋭敏な耳が養われたと信じています。

アメリカにわたって2年ほど過ぎてから私は「トリプルエー」という会社で働き始めました。オリンピック を目指す選手たちをサポートすることを目的としたOJOP(オリンピックジョブ・オプテュニティー・ プログラム)に参加していた企業のひとつで、ロードサービスをメーンに旅行、保険全般を取り扱うマルチ 会社といったところ。

会社側は少しでも選手たちの生活の手助けをし、競技で良い成績を出してくれれば、会社の目的は達成 されたという考えだったので、選手の競技に関することすべてが最優先され、その残った時間に仕事に 参加するシステムでした。 したがって与えられる仕事は限られたものとなりますが、私にとってこれらの 簡単なはずの仕事が最大の難関でした。

花の?受付嬢となった私はお客のリクエストに応えて地図やガイドブックを渡すのを主としていました。 アメリカ地理を日本で学んだ私は「ロードアイランド(東海岸にある小さな州)の地図をくれ」と言われ、 「それってアメリカ国内ですか?」 (海外の地図は別のセクションにあった)と逆に聞いたら失笑を買って しまいました。 ネイティブではないから知らないでは済まされないと思い、それから1カ月余、ヒマさえ あればアメリカと世界地図とにらめっこしていました。 これがこの後、バレーボール遠征をより楽しめることに つながっていったのです。 時には違う楽器をつまびくのもいいもんだと思いました。


(デイリースポーツ'98.6.9)
ヨーコ・ゼッターランドのスポーツ東西見聞録より    

夢と大きな世界広げてくれた故山田先生
母子2代で皇后杯を手にできた

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