Atlanta 1996 that night,She has written on the back of her right hand ,in japanise "Make everything possible"
ブラジルは内なる敵に苦戦していた
バレーと畑違いの世界もいい経験


先週の土曜日、アメリカでの休暇から戻った私は母とともに新宿にあるホテルへと向かいました。 元全日本バレーボールチーム監督だった故山田重雄先生を偲(しの)ぶ会が催されると知り、出席するためでした。

山田先生が日本の女子バレーボール界に残された実績は大変なものでした。 実業団チーム日立の監督としてリーグでの優勝回数は18回を数え、全日本チームの指揮官として、メキシコ五輪で銀メダルを獲得したのを皮切りに、モントリオール五輪で金、そしてロス五輪では銅メダル獲得へと導いていかれました。

数年前にバレーボール界の第一線を退かれた後、お元気でいらっしゃるだろうかと思っていたところへ、突然飛び込んできた訃報(ふほう)には大変ショックを受けました。 山田先生に対する人々の思いはそれぞれ違うものがあると思いますが、私は日本のバレーボール界は本当に惜しい方を亡くしたと思っています。

初めて先生にお会いしたのは中学2年生のとき、私の中学チームが日立エンジェルス(将来有望な中学生を集めてトレーニングしていたチーム)と練習試合をするために日立の体育館を訪れたときでした。 監督室からゆっくりと現れ、コートサイドで試合を見ていらっしゃいました。 一段落ついた後、「ちょっと、キミ」 と呼ばれ、近づいていくと、私の名前を聞くでもなく、いきなり 「キミは実にいいセンスをしている。うん、いいね」 とだけ言って歩み去っていってしまいました。13歳だった私は強烈な先制パンチをくらったような気持ちで、少しの間その場に立ちつくしてしまいました。

その後、何度か練習試合で体育館に行くたびに先生は折にふれて、それも実にさりげなく 「今、世界のバレーはね・・・」 とか 「これからのバレーはね・・・」 という話を聞かせてくれました。オリンピックを目指していた中学生にとって、その体育館の扉を開けるとき、まるで宝石箱のふたを開けるようにドキドキして、その箱の中はキラキラして見えました。 バレーボールを始めてわずか2年しかたっていなかった私の前に大きな夢と巨大なスケールの世界を広げてくれました。

ロス五輪を半年後に控えていたとき、中学生だった私のところに連絡があり、「5年後のソウル五輪の構想を練りたいから日立の体育館に来るように」 と言われたとき、驚くよりも常に世界の頂点に立つことを見ている山田先生の目に子供心に感嘆したものです。 亡くなる直前までバレーに関するメモを書いていたという山田先生はまさに生粋のバレー人間だったのです。 心よりご冥福をお祈りします。  


(デイリースポーツ'98.6.23)
ヨーコ・ゼッターランドのスポーツ東西見聞録より    

ブラジルは内なる敵に苦戦していた
バレーと畑違いの世界もいい経験

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